「ドキュメンタリー演劇のリアリティをめぐって」
阿部初美―森山直人 往復書簡
第一信 「ドキュメンタリー」が開いていくもの
阿部 初美様、
ご無沙汰しています。いよいよ『アトミック・サバイバー』再演ツアーの幕開け、ですね!
これから新しく立ちあがったこのWebサイトで、阿部さんと私とで、何度か「往復書簡」のようなことをしてみようということなのですけど、そもそも何でそんなことになったのかという経緯から、まずは始めないといけませんよね? 去年の2月、『アトミック・サバイバー』(初演)の終演後、この作品の劇評を書かないか、と阿部さんに言っていただいたとき、ふつうの劇評のような「一話完結」ではない仕方で関わってみたい、と私が提案したことから、この話はスタートしたのでした。本当はその後すぐにはじめるはずだったのに、ズルズルいままで先延ばしになってしまって、阿部さんにはさぞかし、だめな奴、と思われていたことと思います。ほんとに、ごめんなさい!
でも、なぜそのときそんなふうに思ったのかというと、たぶん『アトミック』を見終わったとき、これを一般的な意味での「作品」として扱うことに、微妙な違和感をおぼえたからだと思います(もちろん、そこに否定的な意味合いは含まれていません)。「作品」という言葉には、どうしてもあるプロセスの「到達点」とか「結果」というニュアンスがつきまといますが、『アトミック』の場合、そういうこととは逆のヴェクトルを感じたのです。『アトミック・サバイバー』は、むしろ何かの〈はじまり〉を告知している作品だと思いました。そしてその〈はじまり〉は、もちろん「演出家・阿部初美」という一人のアーティストに深くかかわっている〈はじまり〉であると同時に、たった一人のアーティストには還元できない次元での〈はじまり〉でもあるように思えてならなかったのです。だからそのことを、「2007年2月に東京で上演された一本の舞台作品」に対する劇評という形でよりも、まさにそういう〈はじまり〉の地点に立った阿部さんとともに、〈はじまり〉について、何がはじまろうとしているのかということについて、時間をかけてやりとりすることの方が「批評」にふさわしいのではないか、と思いました。さいわい阿部さんも私の思いつきを面白がって下さったおかげで、この「往復書簡」という企画がスタートした、ということなのですが・・・それにしても、はじめるのがこんなに遅くなってしまって、ホントにごめんなさい!
「アトミック・サバイバー」は、「ドキュメンタリー演劇」と銘打たれています。実はこの数年間、私はこの「ドキュメンタリー」という言葉に惹かれつづけています。どうしてこの言葉にこんなにも引き寄せられるようになったのか。理由はいろいろ思いつきますが、何といっても一番大きかったのは、「ドキュメンタリー」というテーマと正面から向き合っている芸術家が、ごく身近に存在していたことです。その芸術家は、映画監督の佐藤真氏です。1992年にデヴュー作の『阿賀に生きる』で高い評価を受け、2005年に、パレスチナ人の批評家エドワード・サイードの記憶と痕跡を題材にした『Out of Place』が、残念ながら遺作となってしまった佐藤氏は、昨年まで、私が職場としている大学の「映像・舞台芸術学科」という同じ機関で教鞭をとられていました。阿部さんもよくご存じのように、この学科は、昨年3月末まで、劇作家・演出家の太田省吾氏が学科長をつとめていた場所です。東京からほぼ毎週授業のために京都に通ってこられていた佐藤さんは、太田さんとパーティションで隔てただけの同じ研究室のブースを拠点となさっていました。京都にいる数年間、佐藤さんは授業の傍らで、山形国際ドキュメンタリー映画祭と連携した本格的な特集上映会を毎年のように学内で企画していました。《パレスチナ問題》、《セルフ・ドキュメンタリー》、《映像人類学》といった様々なテーマのもとに上映された映画は、おそらく100本近くになると思います。そのように、佐藤氏は、私たちの研究室のなかでも、ひときわ大きな存在感を放っていました。
私が佐藤氏の『ドキュメンタリー映画の地平―世界を批判的に受けとめるために』上下巻(凱風社)を読み始めたのは、まさしくそうした作家自身の強烈なプレゼンスに導かれてのことでした。読んでみて驚いたのは、ドキュメンタリー映画を作る、という作業のなかに、一種の演劇論として読める部分が非常に多いということでした。そのことは、別の文章に書いたことがあるのでここでは繰り返しませんが(『舞台芸術』9号、京都造形芸術大学舞台芸術研究センター発行)、舞台芸術という、〈いま、ここ〉で生じる出来事性に必然的に含まれるドキュメンタリー性と、ドキュメンタリー映画を撮影するときに、キャメラという存在が必然的に被写体に生じさせてしまう演劇性が、私にはどうしても結びついて見えてきてしまうのです。たとえばそうした接点は、チェルフィッチュやポツドールやニブロールの受容の要素としてある、一種の流行現象としてのドキュメンタリー性とどのように関係しているのか? あるいはまた、ドキュメンタリー性と演劇性の結びつき、という観点から見た場合、はたして1960年代のアングラ演劇は、どのように読み直すことができるのか? 等々。
けれども、『アトミック・サバイバー』は、私たちにもうひとつの、別の次元の問題設定を切り開いているようにみえます。
阿部さんは、このHPにもアップされている初演のときの「演出ノート」のなかで、「事実を伝えてほしい」という六か所村の人々の声が、この作品を作品として成立させるための大きなきっかけになったとおっしゃっています。たとえば、ある舞台作品の素材を見出すために現地に赴き、そこで起こりつつある「現実」をドラマにして観客に提示する、といった方法は、日本でいえば久保栄の『火山灰地』のような作品以降、ある時期まで多く試みられていた方法です。けれども、ドラマ演劇が、結局のところ作家や演じ手が現地の人々を代表して語る言説でしかなく、あらゆる関係性を「劇場」という狭い世界に閉じ込めてしまうという限界をもっているのではないか、という批判は、まさしく1960年代のアングラ演劇が新劇に対して行った批判の核心部分でした。日本のアングラもそこに属していた1960年代の世界的な前衛演劇思想の最も重要な部分とは、究極的には、「劇場はその外部に向かって開かれなければならない」ということではなかったでしょうか?
けれども、「劇場」という空間が、きわめて自足的に閉じてしまいやすい場であるということも、アングラのその後の展開が逆説的に物語っています。いわば、外部と出会うための仕掛けが、観念的な外部を取り込んだだけの、マージナルな空間における自閉的な「祝祭」というカテゴリーに飲み込まれてしまったことが、今日に至るまで演劇を決定的に退屈なものにしてしまっています。たとえば、古橋悌二の遺作となったダムタイプの『S/N』(1993/95)のような例外的ないくつかの作品を除くと、「劇場」は、外部を失ったまま自分の重い図体をひたすらもてあましているばかりです。そのとき問題は、ハンス=ティース・レーマンのいう「ポストドラマ演劇」が、この閉域を打ち破るどのようなヒントを与えてくれるのか、ということになります。その意味で、「ポストドラマ演劇」は、ポストドラマ演劇という「演劇」ではなく、今日において有効な「反演劇」の方法でなければならない、と思うのです。
初回なのでやや話が大きくなりすぎるかもしれないのですが、私は佐藤氏が、さきにあげた著書で紹介・分析しているドキュメンタリー映画の一切が、たんなる映画ではなく、「反演劇」の方法のヒントを示唆してくれているように思えてなりませんでした。佐藤氏は、1960年代に新たな展開をみせる日本のドキュメンタリー映画史――しばしば「水俣」シリーズの土本典昭と「三里塚」シリーズの小川紳介の二人の作家に代表される――の、正統的な後継者ですが、60年代のドキュメンタリーが扱っていた問題とは、まさしく「映画はいかに外部に向かって開かれることが可能か」という問題に集約されるように、少なくとも私には思われるのです。たとえば小川紳介は、たんなるジャーナリスティックな報道の自足的な次元をこえるべく、三里塚の反空港闘争の現場である農村にスタッフ全員で移り住み、存亡の危機に瀕している〈村の時間〉の全体をフィルムにおさめようとする製作方法を確立していきます。佐藤氏自身が、『阿賀に生きる』で実践したこの「住み込んで撮る」という方法は、そうでもしない限り、けっして簡単に映画になってくれない、映画にとっての外部というものが存在する、という痛切な認識に基づいていました。佐藤氏がこの本の上巻で分析している小川紳介の映画は、『三里塚・辺田部落(へたぶらく)』(1973)ですが、この映画の製作にあたって、小川は闘争場面だけを撮影・編集していると、必然的にただの報道映像になってしまうジレンマから抜け出すために、あえて村の日常を取り込むことで、「村」そのものを提示しようと試みています。けれども、事態はそんなに簡単ではなかった、ことがすぐにわかってきます。以下は、小川自身の回想です。
《三里塚では、農作業もものすごくたくさん撮っているんです。田植え、草とり、一番草、二番草、除草、スイカ。それから三里塚の、あらゆる動植物。(中略)膨大に撮っているんですよ。いつかこのことは、何かの形でもっとちゃんとしたいと思っているけれど、そんなこと、いっぱいあるんです。でも、ワンカットも使ってないです。なぜか。簡単なんです。つまり夕焼けを撮っても、あのときのレベルだと、カナディアン・パシフィックみたいになっちゃうんですよ。きれいなきれいな画でしかないんです。あるいは労働を撮っても、額に汗して働いているというところしか撮れてないんです。もう、なぜだ、なぜなんだってことをね、本当に突きつめました。なんで撮れないんだ、なんで撮るとこうなっちゃうんだ。みんな一生懸命働いているんですよ、汗かいて。ああ、なるほど額に汗して働いている。でも僕らは三里塚に何年もいますから、もう肌でわかってるんですよ、違うって。スイカの芽出しひとつにしてもね、なんか違うんですよ。ものすごくクリエイティヴなんです、あれは。でも、それが撮れない、労働の形しか撮れてないんです。(中略)なんで労働の心が撮れなかったのか。どうして人の話しか撮れないのか。なんで夕焼けを撮るとただきれいでしかないのか。どうしてカマキリを撮ると、チャーミングに撮れないのか。なんで動物でしか、昆虫でしかないのか。それらがだんだんつめられていくんです、僕らの中で。スタッフみんながつめられていくんです。》(『シネアストは語る5――小川紳介』より――佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平』上巻105頁に引用)
少し引用が長くなりましたが、映画が映画にとっての「外部」を導きいれるための戦いは、まさにこのようなものであったということが彷彿としてきます。同じような戦いは、演劇が、演劇にとっての「外部」とコネクトするときにもやはり生じるように思われるし、それが、今日のあるべき「反演劇」の姿だろうと思うのです。
『アトミック・サバイバー』が重要なのは、そして同時にまた、それをたんなる一般的な一本の作品という水準で終わらせたくないのは、『アトミック』が、まさにこうした葛藤と直接向かい合う場を引き受けているからです。たんに一本の作品をまとめる、ということではすまない状況が、そこにはたくさん生まれてくるはずだし、そうした劇場の外、作品の外で生じるいっさいがっさいが、この作品と無関係ではありえない、という事実を、劇場のなかでしか存在しえない作品が、どのように引き受けることができるのか、ということ。――「事実を伝えてほしい」と言われてスタートした『アトミック』は、事実などそう簡単に伝えることなどできない劇場という空間の閉鎖性を、どのように打ち破ることができるのか。打ち破ろうとすることからしか開かれてこない地平とは、もはや「ポストドラマ演劇」といった大雑把な分類概念にはおさまらない固有の方法の獲得に通じているのではないかと思います。
何だか、予想以上に長くなってしまいました。それにまた、どうも一方的にこちらの思い入れをまくしたててしまっただけみたいになってしまったかも・・・。断っておきますが、今回こうして書いたことがらのすべてに、阿部さんに直接答えてほしいということではありません。お互いが感じていることを、時間をかけてやりとりしていければ、この企画の目的は達せられると思います。ときどき、違う人に割り込んで発言してもらったりしてもいいかもしれませんね。ともかく、果たしてどんな顛末になるやら・・・。
どんなことでもいいので、返信、まずはお待ちしています。
2008年8月4日
森山直人
森山直人(もりやま・なおと)
演劇批評家、京都造形芸術大学舞台芸術学科准教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員、機関誌『舞台芸術』編集委員。京都芸術センター主催事業「演劇計画」(2004-)では企画ブレーンをつとめる。